世界は朝を迎える。

仄暗い室内に満たされた夜の名残りを切り裂くが如く、カーテンの隙間から差し込む光はあたかも地獄に下ろされた蜘蛛の糸のようで。
カーテンに施された銀糸の刺繍の輪郭が美しく煌き、室の主人はそれを確認すると同時に、視覚から得た情報を認識する。
(朝…晴れ、…か)
英国はファントムハイヴ邸。室の主人であり、邸の主人であるシエルは、まだ覚醒しきらぬ体をベッドの中で窓の方へと転がすと、カーテン越しの風景へ思いを馳せる。
珍しい事もある、と。
年の大半が灰汁色の雲に覆われるここ英国。こうして太陽を臨む朝を迎える事の、何と久しい事だろう。
心地よい煌きを楽しむように、シエルの瞳はカーテンの刺繍を追い、コバルトブルーに染め上げられた天蓋の内側の銀糸を追い、そして最後に小さくふふっと笑う。
彼にとって「珍しい事」は何も天候だけでは無い。天候よりも彼に関わりのある、そして実に子供らしい、即ち、
「今日は、奴に起こされる前に起きた」
奴―シエルの言うそれは彼の執事を意味する。
彼の執事に狂いは無い。起床の時間は一分と前後せず、一日の始まりはシエルに関わり無く、変わらず幕を開ける。それは時折―だらしなく続いた商談や、下らない夜会を明けた朝など―、煩わしいものとなるのだが。
新しい一日は、あの執事の存在によって始められる。シエルが「セバスチャン」と名を施してやった悪魔。
彼の声で目覚め、瞳を開けたところに、狙ったように彼の顔がある。悪夢にうなされた日などは、起き抜けに彼の破顔した額に拳銃を突きつけ、発砲する事もあったが(恐怖ではない、あくまで憂さ晴らしだ)、その回数が減ってきたここ一年は、悲しいが彼への「慣れ」の賜物だろう。
セバスチャンの到着時刻まで少々暇を持て余し、今朝の紅茶の種類は何か―などと取るに足らない思案に耽り、何となしにサイドテーブル上の置き時計に目を遣る。
だが――
「…え……?」
ささやかな朝の光に浮かび上がる時計の文字盤には、俄かに信じ難い光景。

時計の針が指す、現在の時刻―午前八時四十二分。

「どうして…起床の時刻は…」
過ぎているはず。
本来の起床時刻は、八時三十分。
反射的に置き時計へと腕を伸ばし、硝子越しに時計の針を指でなぞる。
かちり、と長針は動き、確かに八時四十三分を告げるそれ。
(―セバスチャン?)
あえて音には出さず呼び掛ける。執事に―悪魔に施した形の無い首輪、即ち彼の仮の名を。
(―……)
返答は無い。
否、返答どころか、彼の気配さえも。
通常ならば、彼とは右瞳に施された契約書の執行力により、互いの契約印が呼応し合うというのに。
それが今はどうだろう、彼の―悪魔の気配が全く掛からない。
「…セバスチャン?…どう、いう事だ…」
なおも彼の気配を探り、彼という存在を求めるも、結果空しくシエルの呼び掛けに応える声は無く。
かちり。
無情にも時計の長針は八時四十四分を告げる。
その時。

「―失礼致します」
低いノックの音、そして寝室の扉から滑り込む絹のような声、漆黒の燕尾服。
声の方向を見遣ると、
「―セ…」
応えてくれる事の無かった、彼の執事―セバスチャンが。
上品なティーセットが乗せられたワゴンを漆黒の執事が押すのは、シエルにとっては見慣れた光景で。
彼の様子を伺うも、別段変わった様子も無い。
「…セバスチャン?」
微かに吃驚の込められたシエルの呼び掛けに、セバスチャンはゆっくりと顔を上げると、
「…おはようございます」
朝の挨拶と共に少しだけ笑って見せ、背の高い窓に掛かる厚手のカーテンを開く。
室内に流れ込む英国の朝。いつもの風景。
唐突に始められる変わらぬ朝の風景に、逆に戸惑う。
訝しげなシエルを他所に、セバスチャンは紅茶の準備に取り掛かる。
ティーポットから漏れる温かな湯気は紅茶の香気を含み、緩慢な様子で辺りをやわらかく漂う。
紅茶葉が開ききるまでの僅かな時間、セバスチャンはティーポットを見つめたまま動かなくなったが、その横顔にシエルの視線を感じたか、ゆっくりとシエルの方へと向き直ると、
「―驚かれたでしょう?」
困っているとも見て取れる表情を作る。
「――……」
主語の無いセバスチャンの言葉―だが彼の意図するところは分かっている、遅刻に対して―に返答をあぐねていると、セバスチャンは紅茶色の瞳を静かに伏せ、小さく、だがしっかりと応える。

「申し訳御座いません…―寝坊、しました」