その香は全てを狂わす媚薬の如く。
人も悪魔さえも―

即ち、薔薇の馥郁。





一度焼失してしまった屋敷を修復した際、その執事―セバスチャンは主人に問うた。
「庭園の方は、どのように致しますか?」
屋敷の修復を優先してしまったため、未だ手付かずの庭は酷い有様で。
殊に屋敷周辺は、火事の影響でほぼ更地といった様相。
邸の主人―シエルは庭の造形に興味など無かったが、荘厳な外観を誇る屋敷に、焼け果てた更地はあまりにも相応しく無く、そもそも伯爵家の庭として如何なものか。
「坊ちゃんのお好みや、ご希望は御座いますか?」
「好み、ねえ…」
世間体という面倒なもののためにも、ある程度の庭を演出しなければならない。
それはシエルにも分かってはいたが、好みや希望などと尋ねられるのは、面倒以外の何ものでも無い。
シエルはセバスチャンに視線を合わせる事無く、
「お前に任せる」
それだけを吐き、さも興味の無さそうな風に小さく息を吐く。
正直、心からどうでも良かった。
だがセバスチャンは特に気にもせず、書物で得たばかりの知識を嬉々として披露する。
「かしこまりました。―それでは、今流行の自然な植栽と自生植物を生かした庭園と致しましょう。色彩設計に則った、四季折々の花壇を主とし、上品かつ華麗な美しさを醸しつつ、その一つ一つが調和を以ってお屋敷を引き立て、彩るような――」
セバスチャンは執事として人間に仕えるのが久しいのか、もしくは人間に仕える事自体初めてなのか、新しい知識を吸収し、実践出来る事を悦びとしているよう。
シエルにすれば、庭がある程度の形になっていればそれで良いため、セバスチャンの一生懸命な解説は適当に放置し、今日のおやつについて考え出す始末。

「ところで坊ちゃん、一つお願いが」
「何だ」
ふいにセバスチャンから切り出され、シエルは反射的に返答する。
僅かに驚いてしまった事は、悟られぬようにそっと隠す。
意識がセバスチャンに戻ったところで、改めてシエルは思う。この執事が自分に「お願い」をするなど珍しい―と。
結果シエルを身構えさせる事となるが、そのセバスチャンの「お願い」というものが、こうであった。
「庭園に、白薔薇を植えてもよろしいでしょうか?」
セバスチャンのどこか拍子抜けするような「お願い」に、むしろシエルは訝しがり、あからさまに不思議そうな表情(かお)で以ってセバスチャンを見遣る。
薔薇と言えば英国式庭園において、最もポピュラーな花であり、外せる筈など無いのに。
(何を言い出すんだ?コイツ…)
そうは思うも、シエル自身も薔薇は白を最も好んでいる上、セバスチャンに突っ込んだ事を尋ねるのも億劫なため、適当にあしらってしまう。
「構わん、好きにしろ」
セバスチャンは主人から得た許しに、更に嬉々とする。
「ありがとうございます。では、早速――」


それから。
セバスチャンが手掛けたファントムハイヴ家の庭園は美しく蘇り、緻密な色彩設計により構成された花壇は四季折々の表情を美しく演出する。
シバザクラ、デイジー、サルビア…
多種多様な花が植えられる中、やはり定番である薔薇が最も多く見られた。
ペールピンクや真紅色の薔薇が艶やかに咲き誇る中においても、セバスチャン希望の白薔薇がそのほとんどを占めており、予想するに全体の7割は白薔薇で構成されている模様。
その集大成が白薔薇のみを集めた巨大温室(グラスハウス)であり、そこはシエルにとっても気に入りの場所となる。
気候に関係無く散策が楽しめ、薔薇に合わせた室内温度は非常に心地好い。
時には巨大温室にてアフタヌーンティーを楽しむ事もあり、一人で寛ぐ時は勿論、客人のもてなしの場にもしばしば利用され、殊にエリザベスには受けが良い。

当のセバスチャンは、シエルが白薔薇を好んでいる事を早々に見抜き、それを良い事に驚異的な早さで多種多様の白薔薇を収集し、敷地内の白薔薇の種類を瞬く間に増やしてしまった。
好きにしろと言った手前、シエルは特に口を出す事も無く、自身も白薔薇で埋め尽くされていく屋敷の様相をどこか楽しんでいたため、増え行く白薔薇を眺めては、束の間の休息に宛がった。
一見すると白薔薇と括ってしまう薔薇達であるが、よくよく見れば、その種類は様々。セバスチャンを伴い散策した時など、シエルは気紛れにセバスチャンに薔薇の名を尋ねる事も。

「これは?」
「プティット・リゼットで御座います」
「こっちのは?」
「セミ・プレナと、マダム・アルディで御座います。こちらはポンポン咲きで可愛らしいでしょう?」
「ポンポン咲き?」
「花径が十センチ以下で多弁、かつ球形に近い形状で咲く咲き方です」
「これも形が似ているが…」
「こちらはエリザ・ボエル。フランスから取り寄せました」
「これは?」
「デボニエンシス・クライミングで御座います」
「…デボ…?」
「デボニエンシス・クライミング、です」
「何でもいい」

他愛の無いやり取りから察するに、セバスチャンはその全てを把握し、管理を行き届かせている様子。
元々特定の何かにこだわる性質では無いはずなのだが、何故か白薔薇には異常な執着を見せていた。
後に庭師としてフィニアンを雇っても、白薔薇はあまり触らせたく無いようで、どうしても扱わせる時には自分の目の届く範囲で、厳重に。勝手に弄り、どうこうしてしまった際には、大人気も無く容赦の無い制裁を下す程。
かと思えば、大切な白薔薇を惜し気も無く摘み取り、室内に活ける事もあれば、ジャムや菓子、フレッシュティーに仕立ててシエルへ提供される事もあった。極め付けに、入浴の際に湯船に浮かべる事もしばしば。
流石のシエルも、水面を覆いつくす程の白薔薇があしらわれた薔薇風呂には「少女趣味…」と閉口したが、世話をするセバスチャンは始終愉しげにしていた模様。
「乙女か、貴様」
「何とでも?」
悪魔とて好みくらいあるだろう――シエルはその程度に留め、あまり気に掛けぬよう、セバスチャンの思うように任せた。執事という身分を授けられた彼には、もしかしたら猫以外に愉しみなど無いかもしれないのだから。


ある日、薔薇の世話をするセバスチャンに、シエルは何と無しに問うてみた。
「好きだな、薔薇」
「ええ、好きですよ」
やはり白薔薇を愛しげに扱うセバスチャンの横顔をぼんやりと眺めていると、この日のセバスチャンは機嫌が良かったのか、続きを促す前にぽつぽつと話し始める。
「美しいものは美しい。ただそれだけの事です。人間の曖昧な表現などより、至極簡潔でしょう?」
そうして少しだけ笑って、美しく綻んだところを何輪か摘み取ると、シエルの鼻先へと持ってくる。
「ほら、良い香りですよ、坊ちゃん」
セバスチャンの手の中で豊かに香る白薔薇は、香りに特化した品種なのだろうか、強い芳香を放つ。鼻腔をくすぐる甘ったるいオールドローズ香。
薔薇の強い芳香は、どこかアルコールのそれに似ていて、肺一杯に吸い込んだところで、頭の中心がくらりとする。
「何か、危険な香りだな」
思わず苦笑するシエルの鼻先から薔薇を離すと、セバスチャンはそれを自分の口許へと持って行く。
「それが魅力なのでは?薔薇の…」
そう言って、セバスチャンはうっとりと薔薇に口付ける。
薔薇の白い花弁の縁を唇でなぞり、時折赤い舌が覗く。
その仕草が妙に官能的で、別の何かを連想してしまい、シエルはセバスチャンに隠れて身体の震えを受けて流す。
緩やかに増す昂ぶりを紛らわすために、シエルの思考は別の所へと向けられる。
(お前の、異常なまでのその執着の理由は?)
幼稚な疑問符は音とはならず、答えを求める事も無く、シエルの中でそっと消化される。

薔薇は咲き乱れる。白さを増す。